12月の台本も仕上げの時期に入りまして佳境です。手こずっている感じです。調べ物があり、少し前にはなりますが、バイト終わりに新宿区の中央図書館に行って調べ物をしていました。今はその作業もなく家で台本を書く日々です。昨日久々に図書館に行きました。
吉井由吉の「東京物語考」を横に置きながら今の台本を書いています。
まじで書けない。
12月の台本も仕上げの時期に入りまして佳境です。手こずっている感じです。調べ物があり、少し前にはなりますが、バイト終わりに新宿区の中央図書館に行って調べ物をしていました。今はその作業もなく家で台本を書く日々です。昨日久々に図書館に行きました。
吉井由吉の「東京物語考」を横に置きながら今の台本を書いています。
まじで書けない。
非当事者が当事者の顔してつくっている嘘の演劇なんてそういう倫理観のなさなんてほんとうになくなってしまってほしい祈りのようなきもちでえんげきをつくってくださいもう紫陽花の風景やもう丘を歩く彼女の姿飛ばされてしまった、
そういえば『結婚のメンバー』を読んでいるが毎日バイト先までの電車の中で読んでいて本当に泣きそうになってしまう。でもそういうわーってなる感情をどこかで冷静に見よと言っている幽霊のわたしもいて、これはきっとまだ読めてないのだと思いながら、幽霊のわたしの言う通りに2回読んだほうがきっといいのではないかと思いながら1回目を読んでいる。
仕事終わらない、仕事できる人こわい、子どものままがいい
この映像をみて、言葉の強さが担保する力というのを感じた。言葉がいいので、すごくサラッとした佇まいで歌われても響く。そういうことがニュアンス抜きの演劇でもあり得るのではないかということをふとバイトまでの道のりで考えていた。目の前のホームでカップル男の方が女の顔についたなにかを覗いて取ってあげていた松陰神社前
演劇は戯曲という形で保存されるけど演劇それ自体が保存されることはない。だけどカメラで君を撮る瞬間のその瞬間のまぶしさはわかるしわかりたいと思って撮っている。
カメラで撮るその瞬間が、撮りたいと思えたなにかがそこにあるように、演劇においても、見たいと思ったものがそこにあるように想像できたらそれはすごくいい演劇なんじゃないか
制作足りてねーから演出部みんな病むんだろ!相談できる相手がいないからみんな病むんだろ!ということなんてこころの内側にそっとしまうことしかできないねメモリーオザケン聞いて元気出しましょう号泣今さら病むようなプライド一切持ち合わせてないわたくしです基本的に毎日死にたいしなにをみても苦しい死にたいが今日もなんとかその死にたいの肯定のために生きるというのが高校生の夜からずっと続いているアパートに住んでると常に飛び降りできないか考えてしまうので窓を開くと庭があるくらいがいいのかもしれないワンダーしか逃げ場がない食欲?今朝はグラノーラ50グラム死にてー死にたくねー映画観るこわい先輩(好きな先輩じゃなくてハロヲタならわかるだろ?)こわいがんばる恐怖てめーのためにもいじわるなので死にません!!!!!強い気持ち強い愛晴海埠頭はオリンピック選手村になりましたそんなクソみたいなことばっかだなだましだましやっていくしかないのでカメラ使いましょうカメラ自分の内側にあるカメラだけがほんとのほんとうのことだから
美容室で、映画の半券をスマホケースに入れていたら、ミニシアターとか観られるんですか?って角度から話がはじまって、コミニケーションのボールってこういうことなんだなって思った。
事務所でムニはうまくないよね笑、今後の課題は戯曲と俳優ですねみたいな話をされてそうですか笑という気持ちになりながら話を聞いていたが正直悔しい。演技ってなんだろう。
ぼくが生き生きした演技!みたいなものを信頼できない決定的な理由に恥ずかしいってことがあるとして、どうして恥ずかしいとか思うんだよってことになってきた時に、恥ずかしいとか演劇で言ってらんねーだろ!的なカウンターって絶対ある。シティー感!おしゃれ感が好きだから!ってことも理由の一つかな。人前ではさっとこなしちゃう軽やかさが好きだから、演技!アツアツ!みたいな感じ好きじゃないのかな。テレビってそんなにワクワクしながら見てねーじゃん普段!みたいな感じ。普段から自分はどこか冷めて世界を見ているところがあるのかもしれない。
「ほんとのこと知りたいだけなのに夏休みはもう終わり」の夏休みが永遠に続いている感じで生きた心地あんまりしないのよね。
だけどああ、クラブたのしかったな!みたいな記憶って掘り起こせばあって、ああたのしかったな!ってことやほんとは好きじゃないし好みじゃないけど楽しかったな!ってことって結構本当って感じがする。本当の感情を見せるってどういうことなんだろう。
同居人に宮崎さんのやっているニュアンス抜きは男女の性を中性化させるために行っているのか、どうなのかと聞かれて、演じることがわからないから、はじめたけど、どうなんだろう、結局そう見える人がそう見えるような役を演じるのが演技なんだろうか、とか、そういうことからわからなくなっている。ぼくはそのルートからそれてもよいのか。(日本の)演劇には形式と中身が一致しているようなジャンル分けがないから、形式を選択した時に、よく中身がないという言い方をされることがある。戯曲における演出ということだと思う、というような話をした。
行われている演劇はだれのための演劇なのか、その演劇の想像はどの程度必要なのか、人は終わることを前提にしながら生きている、その終わることが演劇にとってもぼくはこわい。それが感動ってことなんだろうか。
いわゆる社会性と言われているものへの抵抗感のようなものがあって、唯一社会と結びつきながらも、個人性の強い貧乏という感覚はわかる気がしている。
個人履歴
1996年高知県土佐市にて誕生。乙女座のA型。演劇カンパニームニ・宮﨑企画主宰。土佐幼稚園を経て、戸波小学校へ。中学受験に失敗し、戸波中学校へ。生活綴り方教育の影響で、生活作文と俳句に熱中しながら日々を送る。
2012年、私立土佐高校に入学するが、勉強はせず、図書館と情報室、美術室に入り浸る。倉橋由美子、柴崎友香などの作家の本、寺山修司の戯曲を熱心に読む。俳句同好会を立ち上げ、第16回、17回俳句甲子園に出場。情報室でお好み焼きパーティーをするなどして遊ぶ。成績は国語以外悪かったが、個人推薦入試で大学に合格し、2ヶ月間おばさんのいるカナダでのびのびと過ごす。バケーションで行ったメキシコのビーチで1週間泳ぎまくったのが楽しかった。
2015年、明治大学文学部文学科入学、上京。唐十郎が入っていたという理由と、寺山が好きという理由から演劇サークル「実験劇場」に入会。東京に来たかった理由は俳句の面白い人と句会がしたかったから。俳句雑誌「円錐」と「群青」に入会、大塚凱、青本瑞季、青本柚紀、堀下翔の5人でトキワ荘俳句版のような日々を過ごす。
2015年冬~2016年夏まで「愛玩墓地」という名前で白塗りアングラの演劇を行うが、人との共同制作に向いていないことに気づき挫折。ひとり部屋で大森靖子を聞きながら号泣するつらい時期。太鼓の音の中で、白塗りの人がご飯に箸をぶっ刺すという演出をしていたのが今では信じられない。演劇に疲れた2016年秋、青年団『日本サポートセンター』を観て、平田オリザの私塾「無隣館」のチラシが挟まっていたので、試験を受けることを決意。アンケートに受けますと書いた記憶がおぼろげだが、ある。
2017年、無事、無隣館に合格。夏に「ムニ」を立ち上げる。俳句雑誌「オルガン」メンバーになった最初の仕事で、斉藤斎藤さんとの対談に強い衝撃を受ける。高山明ワーグナープロジェクトに参加。更に強い衝撃を受ける。だんだん「物語」への不信が興味に変わる。斉藤斎藤の『人の道、死ぬと街』を繰り返し読んでいた。
ほとんど映画を見るか、本を読むか、バイトはお金がなくなったらやるという自堕落な生活の中で、2018年たまたまツイッターで見かけたという理由だけで「犬飼勝哉演出部」に応募、『木星のおおよその大きさ』@こまばアゴラ劇場に参加。「宮﨑さん保坂和志読んでないの?」と勧められ、その後熱中。俳句の短さが取りこぼしている物語の可能性を感じ、俳句が書けなくなる。演劇活動に比重を置くことを決める。以後、ミニシアター通いがはじまる。当時一番好きだった映画はアピチャッポン・ウィーラセタクン『世紀の光』。
2019年、青年団入団の面談で「君は作家になりたいんでしょ」と言われ、たしかにそうだと思い返す、青年団演出部入団。事務所の鍵を間違えて締めてしまい、オリザさんを締め出す事件を発生させ、ひそかに話題になる。大学卒業制作として実質はじめての戯曲『須磨浦旅行譚』を執筆、実験劇場卒業公演として上演。ムニをはじめてから少しずつ友達が増え元気に制作をしている。
2020年『つかの間の道』の上演で少し自信がつく。コロナ禍でハロープロジェクトにどハマりし、中でもJuice=Juiceと工藤由愛さんに夢中になっている。他人にこんなに興味を持つのは初めてである。
2021年現在、戯曲を書く際に引用元が多いこともあり、表現の媒体は映画でも俳句でも小説でもいいのではないかと言われるが、そういう訳でもない。わたしは演劇を選んでいる。演劇を盲信することなく、演劇でないとできないことを今後も探っていく予定だ。
わたしそんな強い女の子じゃない、わたしと付き合ってる男の子はいつもなんか気が強そうな女の子で大変そうだとか言われるけどそんなわたしは強い女の子じゃない、
わたしそんな強い女の子じゃない、たとえば渋谷に行った時に本当はすごいマクドナルドが食べたいけどなんかマクドナルドバクバク食べてるところ見られるの恥ずかしいなぁとかいうどうでもいい気持ちが湧いてきてしまってコンビニのコーヒーで済ませて映画館に向かったりするほんとはすごくお腹が空いていたとしても
わたしそんな強い女の子じゃない、演劇の現場とか打ち合わせとかで堂々としていないと負けちゃうみたいな空気とっても嫌いだけどなんとか強くいなきゃいけないみたいな感じあって無理してるところが多分あるし、女の人にも母殺しとかやった方がいいとかどうして言われなきゃいけないのかわからないわたしそんな強い女の子じゃない、
だけどわたしにもわがままなところはあって、家だとモーニング娘。になった気分で踊り狂ったり、マドンナも大好き!ほんとは内向的なだけなのかも、フェミニズムにも興味あるし、本当の声と態度は違う、だけど本当の声をみんな求めていて、本当の態度には興味がないみたい、でもこれが今の私の声
・演劇は流れか
演劇における切実さってなんだろうとか最近考えてたけど真面目なのより笑えるものの方がよっぽど好感がもてる。演劇だからこの動作がすごく効くみたいなのはある、映画と違って明らかに流れなんだなぁということを考えるようになった。だとしたら時間を大量に扱うのは難しくなってくるのか。想像のフックの作り方。映画は見えていない部分に時間の流れがあるのに対し、演劇は見えている部分に時間の流れがある。見えているところである程度リアルさ(つまり軽さ)を保つことが見やすさにつながってくる。エモが流れの蓄積の上に成り立つのではなく、エモのためだけに働く行為みたいなのはよくわからない。
・演劇はいかに社会の役にたつのか
演劇が役に立つのは生活のシュチュエーションにおいてのみなのか。
相米監督の『飛んでカップル』を見てとても感動したのだけれど、わたしの感動は映画への感動で、別に演劇の人間なのだから映画なんてみなくてもいいのだろうけれど好きだからというか趣味として見ている部分もあるが、共通するストーリーラインの部分で見ているわけでもなくて、映画だと「映画みたいな世界」ということを言うけど、演劇はどうしても生活になってくる。生活を見る、観察することが演劇だと定義すると、社会への役に立ち方につながってくるようにも思う。
演劇は消えるからこわい。なのに呪いのようにその形式は消えない。昔の演劇にわたしたちはアクセスできないけれど、映画は支持体が変わらない。支持体が変化する演劇もアクセス可能といえるのか。どのようにして100年後に上演するのか、俳優の特別性?個性?は必要なのか。なににおいて演劇は必要なのか。集まったときから、終わることが決まっているから、運動をする。その運動は切実さと言えるか。終わることに向かって動くこと。効果として、演劇と幽霊の相性の良さもわかる。
誰にわたしはこの消える時間を託すのか。どのようにしてこの消える時間を託すのか。日常と同じで今この瞬間から消えるものとして託すのか、一回しか言わないから聞いておいてねって託すのか、いろいろな託し方があるけど、観客とどんな接し方をするのか。
演劇はわたしにとって切実さと言えるか。切実さと口にすると、それがない感じがしてしまいますがあえて口にしてみようと思う。わたしの日常と舞台上の日常はどう違うか。生活が見えることは、観客にどのような効果をおよぼすのか。
「終わるもの、消えるもの」という認識の上で、終わりをいかに共有するのか
大学生の頃にはnoteがあって、そこで演劇論などの考えをまとめていたけれど、というかそれがわたしが演劇をするうえで普通のことだったんだけど、最近は読まれることが既にある感じがしてというか読まれる市場の中にいる不自由さが全然好きになれなくなって、noteがぜんぜんフィットしなくなった。文章ってもっと自由でよかったんじゃないかみたいな話なのかもしれない。ブログ世代だからかもしれない。こっちのブログもちょくちょく更新というか、書いていけたらと思っているのだが、まぁほんとのところは更新するのかわからない。
『忘れる滝の家』という作品の上演を1週間くらい前に終えて、まぁダラダラと過ごしているのだけれど、やっぱり何回作品を作っても納得できなさというものはあるなぁと思う。多分どんな作品をつくっても、いくつ作っても、いくつになってもそれはある。けれどわたしの作品に協力する人も観客もわたしがホームランを打つことをきっと望んでいるのだけれど、まぁそうやすやすとホームランばかり打つことなんてできない、というか望まれたものを生産できるほどわたしは器用ではないし、正直それって機械に望むことです、というか機械でも無理だと思う。思考というものはぐるぐる円環している。わたしの手を離れたコントロールできないところで回っている。
『忘れる滝の家』は引用で物語をつむぐことをルールに課して制作した。選ばされる→選ぶという状態になれないかと思っていた。まぁこのあたりは詳しくnotesに書いたほうがいいと思うのでは書く。引用ってなんだろうか、私性とはなんだろうか。相変わらずわたしの頭の中ではぐるぐるし続けている。
このぐるぐるのことを否定する人ももちろんいるが、思考は止められそうにない、とめるつもりはない。みんなぐるぐるし続ければいいのに。叫びつづけることよりも、読んで書いてぐるぐるし続けることや、そのことを叫ぶことのほうがわたしにはなんだかほんとうのことのように思える。
〈境界〉
いないことは、いること
ある、ない
あの世、この世
外、内
行動、心
がらくた、繰り返し、どこでもないどこか、閉塞感と真っ直ぐさ、
思い出すことは、前向き
思い出すことが、物理的に思い出しているという行為自体とは限らない