2020年9月19日土曜日

野蛮

24歳になったが、このままわたしは多分、褒められたい、かわいいと言われたい、面白くいたい、そんな野蛮な気持ちのまま歳を重ねていくだろうし、老いることは既に怖いと感じる。人は信頼できない。だけど、人を頼っていいとは思う。結局は、わたしがわたししか信じられなくて、だから、わたしがわたしの手でわたしを終わらせなければいけないとしても、わたしは生きなければならない。

2020年9月5日土曜日

悔しい記念日

 応募していたさまざまに落ちまくっている最近ですわりと頑張って準備しているのであー純粋に悔しいなーという気持ちがかなり強いしお前にはまだ早いって言われるみたい夢を3回くらいみて最悪でした黒澤清大好きだけど夢のトラウマってたまったもんではないね

もうすぐ24歳になります24歳になるのにまだまだなにも成し遂げられてなくてクソ焦り家族にもチャランポランだとよく怒られてしまいますでもクソ焦ってるのは書類落とされまくってるのも重なっていると思うんだけどもあとさムカつくのはあの人の演劇面白いみたいだね〜ってやつさ話には聞くけどってやつねほんっっと悔しい悔しい悔しいあーでもこの悔しいを書いている間に自分への悔しい、自己承認なんかなーってなって余計最悪〜ってなったでもさ話題に上ってるのはうれしいのさうれしいねでもさやっぱ見てほしいしさ悔しいよね頑張ってるみたいって言われるのはやっぱ悔しいや直接なら余計観てもらいたいなこれは自己承認欲求ですか


んーとでも23歳の時は大学出たばっかで若いのにすごいって文脈を使われることもあってなんだかなーっても思ってたけどわかんねーなー すべての中途半端にむかついてしまって、題材が表現形式よりも勝っているように見えるものは否定したくなるしはー


わたしはわたしのこれまでの全悔しいをもって今日まで落とされたさまざまの悔しいで、今日を悔しい記念日にします

2020年4月20日月曜日

すごいよ

最近「〜はすごいよ」ってめっちゃ言ってる気がする。
みんながだれかの「〜はすごいよ」に嫉妬しない世界だったら超しあわせじゃないすか。

友達と喫茶店でダラダラ話したり、旅行にも行きたいな。

読書もいいな。

あはは


エセ自己肯定は最悪だけど、自分というものが、いろんな要素を持って出来ていて、
自分で自分の機嫌ちゃんと取れるようになったらそれは最高だよね。

ケミオがすきなんだけど、「今日もみんなとシェアハピしていくね」っていいすよね。
このひとにも落ち込みというものがあるけど、シェアハピの方向に持っていく、みたいな。落ち込みの感情もちゃんと受け入れるみたいなね。
なんか書いてくたびに、どんどんうさんくせーわ。やーめた。

二村ヒトシの、心の穴って言い方は言い得てておもしろかったなー。最近一番おもしろかった本でした。


2020年3月3日火曜日

なんだか

自分はクソあまちゃんだなと思うことって多い
なのにさみしいとか悲しいとか苦しい悔しいとかそういう感情が湧いてくるもんだから
クソクソあまちゃんだなと思ってしまう
ついつい卑屈になってしまう

クソあまちゃんだなって思う暇があったら、
思考してほしいです

2020年3月1日日曜日

おこられた

大事(だいじ)にすることと大事(おおごと)にすることは異なる、たしかにそうだ。反省した。
ぼくは、まだ、大事(だいじ)にするってことがもやっとしているから、よくわかってないのかもしれない。大事(だいじ)にするってなんだろう。責任とかわからないって言ったら、大事(おおごと)にしすぎだと怒られた。

フラニーとゾーイのレーンのことをよく思い出してしまう。理屈っぽくてつまんないとわたしはよく言う。そしたらば、また怒られる。

2020年2月24日月曜日

27

27歳までとりあえず生きることにした だから27歳までは演劇やりこんだろと思う 27歳までの目標を立てた わたしは3年日記帳を使っているから23歳から25歳まで同じ手帳を使うことになってる 27歳までである程度まで行かなかったらとか考えずにやるのだという気持ちだけもって毎日生きるしかない 未来は毎日の積み重ね☆

動物と人間と境目と

愛ってなんだろうか。僕には、なんだか、まだ、その輪郭ははっきりとはわかってない、そんな気がしている。

たまたま隣にいた人を好きになって、たまたま隣にいた人が自分のことを好きだと思ったらしいタイミングでお互い育てていた花が咲いて、たまたま隣にいた人がたまたま私の演劇を面白いと思って付き合いたいと思ったらしい、そんな、たまたまに支えられて、自分であー、花も咲いたし、このひとだな、多分とか思って、なんとなく付き合っている。けど、多分なにかが、すごく変わっているとか、そういう訳ではないのだ。ほんとは、名前をつけられてはじまる愛のことを信じられないから、やっぱ、たまたまです、今もたまたまが続いてるんです、って顔をしているだけなのかもしれない。傍から見たら、それはたまたまの状態ではないって感じなのかもしれないけどさ。

たまたまって素振りをすることで、そのたまたまを自分で選んで、自分で選んでるから、このひとの側にいるんだ、ってことを、ただ、信じたいだけ、なんだと思う、なのかもしれない。わたしには、なにが、愛なのかはわからない。

好きだったら、同じ家に住んだり、将来のこととか、考えなきゃいけない、なんて、そんな、なにかをきっかけに名付けられたような、窮屈さは、仕方のないもののようにしか、わたしには思えない。わたしはなにがしたいのだろうか。

ただ、信じたい、信じているよって抱きしめたりとか側にいたり、したい、多分、ただ、それだけのこと、なのかもしれない。

できるだけ、ながく、ずっと、ドキドキしていたい。



2020年1月16日木曜日

なんかさみしい

なんかさみしい

家に帰って、なんか、ものすごくさみしい気持ちになった。寅さんを観た。

つかの間の道が終わった。しばらくわたしは、靴を洗ったり、下着を買ったり、自分の生活を整えることに尽力するだろう。

みんなどんな風に今日を過ごしているのだろう。

わたしは明日ウクレレの弦をはりかえようと思っている。