2021年6月14日月曜日

6.13

同居人に宮崎さんのやっているニュアンス抜きは男女の性を中性化させるために行っているのか、どうなのかと聞かれて、演じることがわからないから、はじめたけど、どうなんだろう、結局そう見える人がそう見えるような役を演じるのが演技なんだろうか、とか、そういうことからわからなくなっている。ぼくはそのルートからそれてもよいのか。(日本の)演劇には形式と中身が一致しているようなジャンル分けがないから、形式を選択した時に、よく中身がないという言い方をされることがある。戯曲における演出ということだと思う、というような話をした。

行われている演劇はだれのための演劇なのか、その演劇の想像はどの程度必要なのか、人は終わることを前提にしながら生きている、その終わることが演劇にとってもぼくはこわい。それが感動ってことなんだろうか。

いわゆる社会性と言われているものへの抵抗感のようなものがあって、唯一社会と結びつきながらも、個人性の強い貧乏という感覚はわかる気がしている。