2021年3月30日火曜日

ずっとこっちのほうがほんとな感じがする

大学生の頃にはnoteがあって、そこで演劇論などの考えをまとめていたけれど、というかそれがわたしが演劇をするうえで普通のことだったんだけど、最近は読まれることが既にある感じがしてというか読まれる市場の中にいる不自由さが全然好きになれなくなって、noteがぜんぜんフィットしなくなった。文章ってもっと自由でよかったんじゃないかみたいな話なのかもしれない。ブログ世代だからかもしれない。こっちのブログもちょくちょく更新というか、書いていけたらと思っているのだが、まぁほんとのところは更新するのかわからない。

『忘れる滝の家』という作品の上演を1週間くらい前に終えて、まぁダラダラと過ごしているのだけれど、やっぱり何回作品を作っても納得できなさというものはあるなぁと思う。多分どんな作品をつくっても、いくつ作っても、いくつになってもそれはある。けれどわたしの作品に協力する人も観客もわたしがホームランを打つことをきっと望んでいるのだけれど、まぁそうやすやすとホームランばかり打つことなんてできない、というか望まれたものを生産できるほどわたしは器用ではないし、正直それって機械に望むことです、というか機械でも無理だと思う。思考というものはぐるぐる円環している。わたしの手を離れたコントロールできないところで回っている。

『忘れる滝の家』は引用で物語をつむぐことをルールに課して制作した。選ばされる→選ぶという状態になれないかと思っていた。まぁこのあたりは詳しくnotesに書いたほうがいいと思うのでは書く。引用ってなんだろうか、私性とはなんだろうか。相変わらずわたしの頭の中ではぐるぐるし続けている。

このぐるぐるのことを否定する人ももちろんいるが、思考は止められそうにない、とめるつもりはない。みんなぐるぐるし続ければいいのに。叫びつづけることよりも、読んで書いてぐるぐるし続けることや、そのことを叫ぶことのほうがわたしにはなんだかほんとうのことのように思える。


創作メモ

〈境界〉


いないことは、いること


ある、ない

あの世、この世


外、内

行動、心


がらくた、繰り返し、どこでもないどこか、閉塞感と真っ直ぐさ、


思い出すことは、前向き

思い出すことが、物理的に思い出しているという行為自体とは限らない