2019年8月14日水曜日

内側と外側

だれかの内側と、じぶんの内側が同じになったり、だれかの外側と、じぶんの外側が同じだったり、そういうことは結構あることなのかもしれないと思った。「君の名は。」の入れ替わるのは、ぜんぜん好きになれなかったのはどうしてだろうな。希望して入れ替わったからかな。不意をやったーとか、災難!みたいなアニーメーションとしての喜怒哀楽で片付けちゃったからかなー。もうちょい考えよか。

じゃあ宇宙規模で考えるとどうなんだろなとか、そういうことでもある気がするけど、これもやってるけど好きになれないのはなんでかな。軽いからかな。偶然感がないからかな。わたしはもっと偶然に信じていたいんだよな。

からだがガチモードになると、受容体のからだになるから、いろんなことをからだに反映していくことができる、みたいな感覚が伴う。理不尽に思ってること、その場の空気、全部、受け止めて形にしていく、というようなからだができあがる。

2019年8月13日火曜日

なつかしさについて

なつかしさとはなんだろう。学校の裏道を毎朝通っていたという話を聞いた時、わたしはなんだかその道が自分が通っていた、夏の、蝉が鳴いている、学校までの坂道と繋がったような気がしてしまった。けれど、今、わたしがなつかしいと思うこと、今を感じることにも、昔は含まれているから、本当の昔を探すことを必要とするのかな。

チャーハンめっちゃラブ

かにチャーハン食べた。同じものを食べるって結構レアかも、ってことに今更気づきました。かにチャーハン食べて、同じ空間で話してる時、胃の中にかにチャーハンあるから、かにチャーハンを言動力にしてお互い喋ってるってことになるじゃないですか。かにチャーハンを言動力にして、景色に感動しながら、歩いてて、胃が同じってことじゃないですか。



胃が同じ!!!!



挫・人間の「チャーハンたべたい」という曲を見っけた。チャーハンめっちゃラブ!

2019年8月5日月曜日

幸せならいいんじゃないかな、

最近言われて嬉しかった言葉は、「みやざきさんと仲良くなってから、夜一人で歩くのも楽しくなった」で、最近むかついた言葉は、「〇〇くんの彼女?」で、わたしには名前があります!と思った。

自分から恋人がいること・いないこと、を発信しようとも思わないが、恋人がいないほうががんばれるだとか、必要ない、という発信を見ることのほうが、なんだか、多くてなんだかなぁ、と思う。どっちもそんな特別に言うことでもない気がするんだよなぁ、しあわせならええやん、がんばってるならええやん、一人楽しいなら、時々さみしいけど、それでええやんみたいな気持ちになってしまう。

というのは、自分が幸せならそれでいいんじゃないかなあ、と思うし、自分が恋人に頼らずに生きていけるとか、自分のことで精一杯とか、そういう自分の価値観を人に押し付けないでいいじゃん、自分がそれでいいならハッピーじゃんという。だから、別に、結婚することを普通のことだとも思わないし、同じように、恋愛しないことが、仕事や芸術を頑張ることができることだとも思わない。ほんとうに、人それぞれだと思う。一人だって楽しいもん。わたしは一人の時間がないと無理だし。

両方やってます、も別にえらいともなんとも思わない。それは、あなたが、選択したことなんでしょう、と思う。わたしは、別に社会的な立場でこのブログを書いている訳ではなくて、ごく、個人的なものとして、これを書いている。恋愛も、仕事も、両方やりたい人がやれて、仕事をがんばりたい人は仕事を頑張れて、そんな風になったらいいのにな。

わたしは、わたしのこと好きな人のことをめちゃくちゃ大事にしたいと思っている。みやざきさんもみやざきさんの演劇も好きだと言われている、すげー!!!がんばるぞーーー!!!わたしはわたしの演劇をこれまでと同じようにやっていくし、多分本を読む量も映画や演劇をみるのも、調べる時間も書く時間も変わらない。言いたいのは、時間減らないし、というようなことです。君100パー!みたいになることがない、普通に好きだけど。めっちゃ好きだけど。めっちゃ好きやから、大事にしたい。わたしがわたしの頑張れることを頑張ることがいいような気がします。わたしの好きな人はよく寝るし、よく食べるし、料理がうまいし、おいしいものを知っているし、演劇もがんばっている、健康的でいいと思います。

どうだろか。

名前

わたしのことを「みやざき」と呼ぶ人は結構少ないことがわかった。大体、大学時代演劇してて仲良かった4人くらい。あとは、大学時代の演劇サークルの先輩たち。今一番会ってる人たちは大体「みやざきさん」と呼ぶ。「みやざき」として出会った人と、「みやざきさん」として出会った人がいる。「れな」と呼ぶのは地元の友だちくらいかな、たしかに。「れなちゃん」は時々あるかも、年上の先輩。だから、「みやざきさん」と呼ぶ人にとって、わたしはずっと「みやざきさん」なんだと思って、それは結構面白いことだなと最近思った。多分、わたしも、今、どこかにいる、「その人」、に出会ったとしても、どんなに仲良くなっても、「その人」として、会った時の人称が残り続けるんだなと。これからの人生でわたしはもう、あまり「れな」と呼ばれることはないのかもしれないな。
れなちゃん、れなちゃんと呼ぶのはわたしのおばあちゃんくらいかもな。れなと呼ぶのは家族くらいかもな。

なんとなく幸せ

どうしたって、人は、自分の思っているように人があってほしいと思う生き物なのだから、わかりあえないことは当たり前だし、わかりあえたときはうれしい、そんな風に考えている。だから、自分には、劇団という制度は向いていないように思う。わたしは、わたしのやりたいことを作品にしているし、人は変わっていく生き物なのだから、集団にしばられないほうが、いいんじゃないか、いつも一緒にやる人、のようなものはあるけれど、それでもわたし一人のために「ムニ」はあっていいし、それはわがままとは違うかたちなのだと思う。