2021年4月9日金曜日

切実さとあえて口にしてみることについて

・演劇は流れか

演劇における切実さってなんだろうとか最近考えてたけど真面目なのより笑えるものの方がよっぽど好感がもてる。演劇だからこの動作がすごく効くみたいなのはある、映画と違って明らかに流れなんだなぁということを考えるようになった。だとしたら時間を大量に扱うのは難しくなってくるのか。想像のフックの作り方。映画は見えていない部分に時間の流れがあるのに対し、演劇は見えている部分に時間の流れがある。見えているところである程度リアルさ(つまり軽さ)を保つことが見やすさにつながってくる。エモが流れの蓄積の上に成り立つのではなく、エモのためだけに働く行為みたいなのはよくわからない。

・演劇はいかに社会の役にたつのか


演劇が役に立つのは生活のシュチュエーションにおいてのみなのか。

相米監督の『飛んでカップル』を見てとても感動したのだけれど、わたしの感動は映画への感動で、別に演劇の人間なのだから映画なんてみなくてもいいのだろうけれど好きだからというか趣味として見ている部分もあるが、共通するストーリーラインの部分で見ているわけでもなくて、映画だと「映画みたいな世界」ということを言うけど、演劇はどうしても生活になってくる。生活を見る、観察することが演劇だと定義すると、社会への役に立ち方につながってくるようにも思う。


演劇は消えるからこわい。なのに呪いのようにその形式は消えない。昔の演劇にわたしたちはアクセスできないけれど、映画は支持体が変わらない。支持体が変化する演劇もアクセス可能といえるのか。どのようにして100年後に上演するのか、俳優の特別性?個性?は必要なのか。なににおいて演劇は必要なのか。集まったときから、終わることが決まっているから、運動をする。その運動は切実さと言えるか。終わることに向かって動くこと。効果として、演劇と幽霊の相性の良さもわかる。

誰にわたしはこの消える時間を託すのか。どのようにしてこの消える時間を託すのか。日常と同じで今この瞬間から消えるものとして託すのか、一回しか言わないから聞いておいてねって託すのか、いろいろな託し方があるけど、観客とどんな接し方をするのか。


演劇はわたしにとって切実さと言えるか。切実さと口にすると、それがない感じがしてしまいますがあえて口にしてみようと思う。わたしの日常と舞台上の日常はどう違うか。生活が見えることは、観客にどのような効果をおよぼすのか。

「終わるもの、消えるもの」という認識の上で、終わりをいかに共有するのか


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